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いつかの記憶
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# 均一化のもたらしたもの
内田樹氏の『下流志向』を読みました。
(夏休みの課題でした、課題として投稿したものを一部変更し載せています)

 『街場の教育論』と比較し、私は内田樹氏(以下内田氏)が述べている根本的なメッセージは同じだと感じた。この二つの著書に共通している事は、内田氏が、教育や労働の現場だけでなく社会全体の価値観が無時間モデル(ギブ・アンド・テイク)化している事が、ひきこもり、ニート、学級崩壊、学力低下、高齢者の所在不明問題、就職難など現代社会に存在する問題の要因であると述べている点である。
 社会の価値観が、売り手と買い手による等価交換を基本としている限り、その社会において必要とされているのは「人間」ではなく「利益」なのである。
 私は、利益を得る事が間違っているとは思わないが、そこに「自分」が抜けている事が問題であり、総て自分の利益とするか、何も得ないかの100と0しかない一元的な視点が、社会全体の大きな病のように感じられる。
 内田氏は、この一元的な視点しか持てない(もしくは、それしかないと考えている)事がリスク社会において更なる悪循環をおこしており、だからこそ、著書やブログにおいて度々周囲を眺望する視点が必要であるというメッセージを発信しているように私は思った。
 『街場の教育論』で述べられている眺望する視点を得る為の場が、教育現場(特に大学)だからこそ、「学ばない子どもたち」は何よりも問題なのである。
 子どもたちは、なるべくして勉強しない学生になっている。
 だからといって勉強しない学生を援護しているのではなく、社会の問題の原因追及が常に複数の要因ではなく、一つの事に向いている気がしてならない。
 例えば、現在の学力低下をゆとり教育による弊害としたり、学級崩壊を親による子どもの幼少時の躾不足としたり、一方的であると私は感じている。
 内田氏はブログにおいて、度々このような学生の学力低下の問題等を、メディアが他国と比較し、数値化して晒すだけで、解決策を議論しようとしない現状に苦言を漏らしているが、国家がリスクをとる事を強制し、リスクをヘッジする事を提案しないのだから、期待をするだけ無駄なのではと私は思っている。
 また、個人的な意見ではあるが、幼少時のしつけや基本的なマナー、勉強は個人でするものではなく、親と子で行なうものだと私は思う。
 リスク社会だから自己責任の元、自己決定をさせられていくことで、人は孤立して行くのだから、他者の相互摩擦が減り、様々な悪循環が起こる事は必然なのだと感じた。

 関係あるようなないような個人的な話。
 私と同年代の人は小学生時に音読という宿題があったと思います。私の小学校にもこの宿題があり、母親に教科書の詩や文節を音読し、点数を貰うのですが、音読をしている際にこちらが適当だと、何でかそれは見抜かれる。
 何故見抜かれるのか、声を出す、音を発すという行為では代わらないのに、決定的な違いが自分では認識出来ない。こういう事からも自己と他者のコミュニケーションは始まってる。
 総ては等価交換ではない。こちらが見抜けないものを、相手はわかっている場合だって当然ある。
 イエス/ノーの一元論の世界には、自分とそれ以外で、自分が中心であると言う事が問題。
| - | - | 18:07 | category: book |
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